ピカソ美術館と国立近代美術館 〜アートについて感じたこと〜

せっかくパリに来たのに古典美術だけではもったいないので、ピカソや現代アートの世界にも触れてみることにしました。

まずはピカソ美術館から見ていきましょう。

ピカソ美術館

ピカソ美術館は17世期の館を改装して建てられました。

ピカソの死後に相続税の代わりとして納められた作品がコレクションの中心になっています。

17世紀の館なのに綺麗な状態で残っているなと感心させられますが、ここはフランスのパリなので特に珍しいことでもないというのがヨーロッパの凄さでもあります。

ピカソはキュビズムという表現を創出した偉大な画家です。

キュビズムとは対称を周囲の空間ごと切断面に解体する手法で、立体を積み重ねたように見えることからキュビズムの名が来ているそうです。

ピカソはキュビズムという表現にとどまることなく新しい表現を模索し続けました。

ピカソ美術館ではピカソの歴史の流れがわかりやすいような展示になっています。

上の写真はピカソが所有していたルノワールの小さな絵画です。

ルノワールの絵から光の描き方を研究をしていたこともあるようです。

頭部を切り落とされた羊が作品のモチーフに多用される時期があります。

ひとつの作品を見て彼が何を表現したかったのかはわかりませんが、新しいアートや価値の創造に挑戦し続けていたことは確かなのではないかと思いました。

作品が完成する前のデッサンも多数展示されていてピカソの幾何学的な絵はそのように完成されたのだなと驚くこともありました。

本当に一人の人間から生み出された作品たちなのかと思うくらいに多様性があって量に圧倒されます。

国立近代美術館

国立近代美術館はポンピドゥーセンターの5、6階にあります(外観写真を撮り忘れてしまった…)。

アンリ・マティスから1960年頃までの作品が展示されています。

現代アートらしくぶっ飛んだもの、よくわからないもの、感心させられるもの、色々なものに出会える美術館です。

この表現であれば僕でもぱっと見で理解できる作品です。

しかし、現代アートというのは人々が理解できる領域にとどまることを許さず、新しい価値を創作し続けなければならないという側面があるのです。

多くの人が理解できるということは世間に価値が認められてひとつのジャンルとして定着した状態でもあります。

人々が簡単に理解できて、多くの人から支持されて、価値が定着した作品をあえて自分が作らなければならないかという考えは理解できなくはないです。

それが結果的にぶっ飛んだ作品になっていくのではないかと思います。

今までにない作品を作って社会的に影響力があるお金持ちの人々が認めればアートは成立します。

それに追随する人が多ければそれがひとつのジャンルとなるかもしれません。

壁に貼られた壊れたピアノ。

古いピアノに打ち付けられた釘。

キャンバスにぶちまけられた青い絵具。

ひたすらに手書きの数字が書かれたキャンバス。

落ち葉でできた人間の肺。

これくらいだとメッセージがわかりやすい。笑

廃棄されるイヤホンを集めて作られたアート空間。

床にできた影が面白いですね。

ケーブルって結構無駄に捨てられてしまうものですよね。

USB充電ケーブルを無駄にしないアイデア!

2020年1月26日

こういう啓蒙的なアートも良いです。

難解な作品の間に理解しやすい作品があるとほっとします。

アートのお値段という映画を思い出した

ここからはアートに関する僕の雑感です。

パリの国立近代美術館を歩いていたら「アートのお値段」という映画を思い出しました。

映画のインタビューの中でなぜこれらの現代アート作品がそんなに高いのか尋ねられたところ、誰も明確にその価値を説明できなかったことが印象に残っています。

しかし、アートというものは市場価値が高くあるべきなのかもしれないと思いました。

現代アートの価格高騰で個人投資家による独占所有を嘆く意見がありますが、それは中世などの時代もそうだったのではないかと思うのです。

バチカン博物館の収蔵品は歴代のローマ法王コレクションですし、ルーブル美術館の収蔵品はナポレオンをはじめとする絶大な権力者たちのコレクションです。

アートとして世間に認められるにはその作品に高い市場価値がつく必要があるので、僕は現代アートがはじめから博物館などに収蔵される必要はないと思います。

世界の美術館や博物館の始まりは王族や資産家のコレクションが元になっていることが多いので、現代の資産家が所有している現代アートもきっとそのような形に落ち着いていくのではないかと勝手に想像しています。

現代アートの値段が高いことに関しては誰も傷ついてないし価値を感じた人が対価を払えば良いことです。

現在のアート市場の流れとして美の基準が民主的ではなく金持ちの基準だけで決められてしまうという指摘は確かにありますが、今までの歴史を振り返ってみて庶民がハイエンドな芸術に審判を下したことがあるかというとそれは否です。

最先端のアートは民主主義で決められるものではなくて、限られた少数の人の心に刺さるものなのではないかと思いました。

最先端のアートが世間に認められることには、また新しいアートが生まれているという循環が繰り返されているように思います。

それは音楽やテクノロジーの世界もそう言える側面があって、それらもアートだと言える場合もありますね。

美術館を歩きながらそんなことを考えたのでした。

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